「セコンダ・プラティカ」のめざすもの

雑記帖

わが国日本で、東軍西軍が関ケ原に於いて戦っているとき、ローマではカラヴァッジョが <聖ペテロの磔刑> を、トレドではエル・グレコがサン・ホセ聖堂の仕事に取り掛かろうとしていました。そして、ルネッサンス文化の花を咲かせたフィレンツェでは今日音楽芸術の中で非常に重要な地位を占めるオペラを、<Camerata Fiorentina>と自称する文化運動グループが創始したのでした。

1500年代後半から1600年代前半にかけてイタリアの各地には文芸復興の波に乗って数多くの文化運動グループが活発に活動していました。これらの団体は<Accademia>と呼ばれ、音楽的活動をするグループが比較的多かったようです。<Camerata Fiorentina>もその一つでした。彼等の中には、音楽家Vincenzo Galilei(大天文学者Gallieo Gallieiの父) 、Emilio de'Cavalier, Glulio Caccini、 Jacopo Peri、詩人のOttavio Rinuccini等がおり、その指導的立場にあったGiovanni Bardi 伯爵邸や、貴族で音楽を愛したJacopo Corsi邸に集まりました。

 そして彼等がめざしたものは、ギリシャ劇を、かつて行われたと想像されるやり方で上演するための、新しい方法を試みる事だったのです。それは、 「最も品性を高める演劇形式である悲劇は、その言葉が飾られ、喜びを付与されるように、詩形式で書かれ、音楽によって高揚されなければならない」とアリストテレスがのべたような音楽でした。ギリシャの歌手たちが弦楽器の伴奏で詩人の歌(詩)を歌ったことがこの時代のカメラータの音楽家たちの想像力を駆り立てたのです。すなわち、劇をその目標としたために、演奏においても同様に、言葉と韻律の表現を第1とし、声の美しさの表出を第2とし、歌詞の抑揚が保たれ、しかも言葉の意味が完全に明瞭になるように、歌詞に曲がつけられ同時に歌われました。

 彼等のめざす音楽は、語られ、感情を呼び起こすことで詩と競い、詩人の感性による言語イメージに、より豊かな色彩の絵画を措くといったようなことだったのでしょう。Claudio Monteverdiが提唱したSECONDA PRATICAは、こうして実現され、 J.S.BACHやG.F.HANDELの頃まで、バロック時代の音楽の最重要規範のひとつだったのです。すなわちGiulio Cacciniが1602年に出版したLE NUOVE MUSICHEの序文に引用している、プラトンの言葉がそれです、 「音楽は、まず言葉,次にリズム、そして最後に調がくるのであって、その逆ではない」と。


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