02-共通認識の大切さ
・・・それで、問題なのはその会話ができているかだけじゃなくて、会話を楽しんでいるように聴こえるかっていうのが鍵。だね。下手すると楽屋落ちってこと、起こるからね。
楽屋落ち?
当の本人たちだけが楽しんでいる。お客さんがおいてかれると。そのことをわれわれ演奏家は常に危惧してなくてはいけなくて、危機管理をしてなくちゃいけなくて。
・・・そういうのって、ただ気をつけてるだけでは防げるものではないですよね?
うーん。そうだね。どう聴こえてるだろうっていう客観的な耳をいつも持ってないと危なっかしいってことは確かだよね。 やったつもりっていうのが多いもんね。われわれの日常では。
あと・・・、今回のもうひとつの対話は、ガンバと通奏低音であるチェンバロの左手は、ある程度会話をするチャンスがある。それが、対位法的になってる場合もある。
そうすると今度はそれじゃあ、チェンバロの右手は何をしてるかっていうと ガンバと通奏低音とが協同でしようとしてるニュアンスを右手の形に表すってことだよね。
「クレッシェンドしたいんだよね?」って
「こうやってディミヌエンドしませんか?」って
「こんな風にリタルダンドするんじゃありませんでしたっけ?」って。
そうすると、今度はガンバのほうはガンバのイディオムで
「そうだよね、こうやってディミヌエンドだよね」って言ってできるだけ美しいスーパーディミヌエンドをやる、と。
だから、共通認識としてガンバのできるディミヌエンドと、ほっとけばとっくに減速してしまう。ついては音がなくなってしまうチェンバロの音とが右手がつくことで、長い音の続きの向こう側に、美しいディミヌエンドがあるように聴こえるはず・・・なんだね。
例えば、ガンバも通奏低音も3拍持ってたりすると、チェンバロがたった一回弾いた和音は3拍もたないよね。
ましてや、途中でふくらんで、またディミヌエンドするっていうようなことが共通認識だとすればそれを一回の和音でポンって弾いただけでは無理だってことだよ。そうすると、そこにはアルペジオの工夫と、それから ディミヌエンドするためのニュアンスフルな右手のメロディーが聴こえてきたときに
「あーそういう風にしたいんだな」って
「それは僕とおんなじだな」っていう風に聴こえれば会話になる、と。
それはだから、対位法的な会話とは全然違う方法論なんだね。 そのほうが「Jazzy」なんだね。つまり「即興性」がある。
では、
即興性を生かすとはどんなことなのでしょうか?
<<
その3へつづく>>
- 2007年03月20日23:00
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